BUMP OF CHICKENという弱虫について
わたしの音楽人生は、すべてここから始まった。
昔からよく音楽は聴かされていたのでもちろんウォークマンに入れて持ち歩いたり、カラオケで歌ったりする曲はいくらか知っていた。
でも泣かされたり、笑わされたり、感情を揺さぶられて、夢中にさせられる音楽に出会ったことは、わたしが彼らに出会った9歳、それまで無かったと言えると思う。
小学3年生のとき、何かのドラマで彼らの音楽を聴き、なんとなくボーカルの声が良かったのでツタヤに走っていつも通りシングルを借りた。それが1回目の出会い。
2回目は震災のとき、復興支援のCMで彼らの音楽を聴いた。この時がたぶん、初めてだと思う。音楽が心の奥底まで響いてきた。ずしーんと、重い何かがのしかかるみたいな。歌い方から、しゃがれた声、藤原基央の書く歌詞、何から何まですごい衝撃だった。
“ 零した言葉が冷えていた時は 拾って抱いて温めなおすよ “
“ 大事な人が大事だった事 言いたかった事 言えなかった事 “
こんなに温かい言葉を歌う人がいるのか。わたしはあんな気持ちを決して言葉にはできなかったけれど、当時の気持ちはよく覚えている。
被災地ほどではないがあの震災の悲劇を体感し、テレビ越しにリアルタイムで見た人間の1人である。わたしを含めて、何人のリスナーがあの歌声に救われたんだろう。
そんな衝撃を与えたのがBUMP OF CHICKENというバンドだというのを知ったのは、その2年後だった。
2013年、新曲「ray」をfeat.初音ミクとしてリリースした。キラキラとした音色で震災のときのイメージとは全く異なったせいかあの彼らと同一人物だということに気づくには少し時間がかかったが、初めてBUMP OF CHICKENという名前を知り、rayをきっかけに彼らの存在を認知し、心から好きになった。あの時の彼らだと気がついたのは好きになってからすぐの話だ。
“ 寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから “
” 時々熱が出るよ 時間がある時眠るよ
夢だと解るその中で 君と会ってからまた行こう “
それまでふつうの恋愛ソングや、友情ソングしか聴いてこなかったわたしにとって、「あれ、これって誰に向けた歌なんだろう?」という疑問が発生した。友達にも恋人にも、はたまた家族にも思える。そして彼らに出会ってわたしの中に生まれた新しい概念、それが「”君”という名の”自分”」である。
天体観測の中で彼はこう歌う。
“今まで見つけたものは全部 覚えている
君の震える手を 握れなかった痛みも “
天体観測は長年ファンの間で「今の自分(僕)と過去の自分(君)の歌」として語られてきた。(もちろん解釈は人によるので恋人でも家族でも可能だが、私はただ単に君と天体観測に出かけるだけの歌ではないと思っている)
僕は僕で君も僕。ずっと一人を好んで、全てを自分の中で消化してきた私は、その概念をすぐに飲み込むことができた。もはや昔から私の中にあった概念だったのかもしれない。今でも天体観測はBUMPのなかで最も解釈の難しい曲だと思っているので半分も理解しきれていないけれど、この歌に何度も助けられてきた。
“ 飛べない君は歩いて行こう
絶望と出会えたら手をつなごう “
“ そこで涙を零しても
景色は変わり そして消えていく
少しでもそばに来れるかい?
必ず見つけてやる “
“ 死んだ心をどうするんだ
忘れたフリして覚えてるんだろ
突き放しても 捨ててみても
どこまでも付いてくるってこと
闇に守られて 震える身に朝が来る “
“このままだっていいんだよ
勇気も元気も 生きる上ではなくて困るものじゃない
あって困ることの方が多い でもさ
壁だけでいいところに わざわざ扉作ったんだよ
嫌いだ 全部 好きなのに “
中二病と言われてはそれまでだが、
孤独になってしまって閉じこもったわたしに
「君は孤独だ、やっと気づいたか?」
と現実を突きつけ、
「それから、どうするつもりなんだい?」
と問いかけて、一歩進む手伝いをしてくれる。
BUMP OF CHICKENはそういう人間だ。
でもどうしてそんなことができるかと言ったら、
彼らが一番の弱虫で、孤独な人間だからである。
デビューしても頑なに地上波を拒み、
批判するリスナーやライターを真っ向から批判し返し、
機嫌を悪くしてライブ中に怒鳴る。
全く世代でなかったわたしは、当時も、勿論彼らのインディーズ時代も知らない。その前なんかもっともっとわからない。だけど、リスナーみたいな弱虫じゃないと、こんな、弱虫のためのような曲を作ったり、演奏したりできるはずがないのだ。
彼らは丸くなったと、彼らのもとを離れていくファンたちは口々にそう語る。
わたしもその一人だと思った。ここ最近の新曲を聴けば、あの荒々しさはどこへ行ったんだ!あの刺々しくて、すごく優しいBUMP OF CHICKENは。これじゃあただ優しいだけじゃないか。今に始まったことではないが、やはりライブに行っても黄色い声は絶えない。そんなことを思ってこの一年間は彼らの音楽から離れて色んな世界の音楽を聴いた。彼らのルーツも一から辿ったし、音楽にはずっと詳しくなった。久しぶりにアルバムをリリースすると言って出したシングルは日曜劇場で洋ドラのリメイクなんていうものだから、正直ショボいなあと思ってしまったのもまた事実だが、聴いてみたらそんな思いはふっとんでしまった。
なあんだ、全然変わらないじゃないか。
それこそ尖って最近のBUMP OF CHICKENを認めなったわたしってちょっとダサい、とまで思ってしまった。
“ 大切にするのは下手でも 大切だって事は分かっている “
“ ああ なぜ どうして、と繰り返して
それでも続けてきただろう
心の一番奥の方 涙は炎 向き合う時が来た
触れて確かめられたら 形と音をくれるよ
あなたの言葉がいつだって あなたを探してきた
そうやって見つけてきた “
ちがうよ、わたしの言葉じゃなくて
君たちの言葉がわたしを救って、見つけてくれたんだよ
ちょっとキザだけど、新曲を聴いた時にそんなことを思った。
BUMPを一番よく聴いていた中学生のときと比べて、わたしにも大切に思う友達ができたし、昔よりも家族を大切に思えるようになった。
でもそれを伝えるのは、やっぱり今でも下手なままだった。
昔よりもたくさん頑張れるようになったけど、頑張ればうまくいくことなんて何一つなかった。理不尽の中で、どうにかもがいて生きるしかなかった。
(なんで話したこともないのにわかるんだよ、藤原基央) と思いながら、
結局彼もそんな思いをしながら約40年間生きてきたのかなあなんて
4人の弱虫をいとおしく思ったりした。
わたしは追っかけではないので彼らの活動全てを認めることは難しい。
きっと微妙だと思う曲は気にせず批判するし、
もう毎週ラジオは聴いていないし、
彼らの出ている雑誌を片っ端から買うこともなくなった。
けれど彼らの音楽への想いは、この先ずっと消えないのだろうな、と思う。
わたしを音楽の世界へ引き入れてくれて、
わたしを絶対に独りにしなかった音楽だ。
必ずわたしがちゃんとした大人になるまで、もしかしたらその後も
ずっとわたしを支えてくれる弱虫たちでいて欲しい、と思う。